Story4

海に、大地に、
人々の挑戦は続く

明治時代半ば以降、天然魚に頼った鮭漁は、次第に資源が枯渇していきました。西欧諸国と 肩を並べようと国を挙げて邁進する政府にとって日本の東門の安定と発展は不可欠であり、 鮭漁を補う新たな産業の確立が求められました。現在、根室海峡で水揚げされるホッカイシマエビや 昆布などの多彩な水産品は、鮭の不漁に直面した漁業者が、ここで生きるために始めた漁の姿といえます。 また野付で目にする「海辺の牛舎跡」は、漁業者が漁の傍ら、副業として畜産農業を行った、 かつての半農半漁の暮らしの名残です。


酪農業は大正末期以降、根釧(こんせん)台地内陸部に拡がり、全国から集まった開拓者の手で 一大産業へと成長しました。別海の「旧奥行臼駅逓所」や標津の「旧根室標津駅転車台」など、 根釧台地の内陸交通遺産は、持続可能な産業の確立を目指し、海から大地へと展開した先人たちの、 内陸の「道」の歴史をいまに伝えています。いま根室海峡沿岸で目にする数々の一次産業は、 半世紀に及ぶ鮭不漁の中、人々が日々の暮らしをつなぎ、当地の発展を夢みて臨んだ、新たな挑戦の結晶なのです。

不漁に耐える

天然の鮭に頼ってきた漁業は明治30年代以降、次第に資源が枯渇し、 沿岸部では漁師が副業に畜産を行う半農半漁の暮らしがみられるようになりました。 『標津町史』にはこんな記述があります。
「大正二年以降は、大正十、十二年の豊漁をのぞいて不漁の連続であり、漁業不振のどん底であった。 その日の生活にもこと欠く者が続出し、親子心中の噂もあり、宮田岩松漁場主が発狂したと噂されたのもこの頃である」 鮭漁の不振は人々を心中にまで追い込んでいたのです。漁業資源の強化、開拓が求められ、1891(明治24)年、 西別川に初めて建設された人工ふ化場は、翌年には標津川、羅臼川、忠類川にもそれぞれ施設が完成しました。 根室海峡沿岸部は北海道でもっとも早くふ化事業体制が整った地域となります。 しかし、その成果が実を結び、鮭の来遊数が急激に増えるのは1970年代になってからのこと。 それまでは長く不振にあえぎ、鮭を補うように、ホタテや昆布、ホッカイシマエビなどが盛んに 水揚げされるようになりました。
碓氷勝三郎の缶詰工場では、それまで技術的に難しかったエビ、カニの缶詰開発に成功し、 鮭鱒に代わる新たな資源を開拓しています。それらの漁は現在の根室海峡沿岸の、鮭と並ぶ水産物へと成長し、 野付湾でホッカイシマエビ漁を行う打瀬舟は春と秋の風物詩ともなっています。

北海道遺産にも選定されている野付湾の打瀬舟によるホッカイシマエビ漁

さらにこのころ設立された標津村茶志骨漁業組合では、凶漁対策のために漁具の改善など とともに仔馬の飼育を推奨。日清・日露戦争をきっかけに高騰した馬は貴重な現金収入となり、 漁師たちの生活を支えました。牛の飼育も積極的に行われ、碓氷、藤野の缶詰工場でも原料の鮭・ 鱒が減少したことから、エビやカニの缶詰開発に着手したほか、大規模な牧場経営にも乗り出しています。 また、鮭、鱒、ニシンの漁業経営を目指してやって来た移住者が畜産業に転身した例も多くありました。

根釧原野、
酪農の幕開け

昭和30年前後の野付半島での放牧風景(福沢英雄氏撮影)

資金のある漁業家による牧場創設が相次ぐ一方、内陸部の開発はなかなか進みませんでした。 その理由の一つに、1886(明治19)年から和田村(現根室市)に入植した屯田兵の失敗があります。 屯田兵440戸が入植して大農村を作ったものの、農業経験がない士族集団であったことや、 森林が濃霧発生の原因だと誤って木を伐採し、海霧や強風の害が多かったことなどが重なり、 「根室地方は農業に適さない」という誤信が広がってしまったのです。しかし、その後の調査で 農耕適地であることがわかり、1910(明治43)年、別海村中春別地区には北海道庁根室農事試作場が設置されました。

標津村内陸部(現中標津町)で本格的な農業開拓が始まったのもこのころで、1911(明治44)年、 徳島県民と静岡県民によって構成された「徳静団体」13戸が移住。しかし当初は穀類と豆類を中心とした 農業が行われたため、冷害や濃霧の被害が大きく、人々の暮らしを安定させるため導入されたのが、漁業者の 副業として採用されていた畜産農業でした。村は入殖者に乳牛の飼育、木炭窯の改良、農機具の購入を奨励。 1922(大正11)年には道費2割の補助を受けて乳牛120頭を導入し、村の希望者に売り渡しを行っています。
こうした流れを受けて徐々に乳牛の飼育が広まり始めます。1925(大正14)年に「中標津の酪農のパイオニア」 とよばれる後藤卓三が初めて集乳所を開設すると、それまで乳をしぼっても売るすべがなかった人々が遠くからも 生乳を搬入するようになりました。また、1924(大正13)年に厚床-中標津間に日本初の殖民軌道が開通し、 未整備だった原野を多くの人と物資が移動できるようになったのです。

昭和30年前後の野付半島での放牧風景(福沢英雄氏撮影)

こうして大正期には多くの移住者があったものの、たび重なる冷害凶作により、その3分の2が離農するほどの 厳しい状況が続いていました。それをなんとか持ちこたえられたのは、関東大震災の罹災者救済と、 北海道開拓の労働力確保のため国の救済措置があったことが大きく、1927(昭和2)年に国費によって 北海道農事試験場根室支場(のちの「伝成館」)が建設されると、当時めずらしかったコンクリート 造りの立派な建物を見てこの地に移住を決めた人もいました。 しかし、原野の開拓は簡単には進みません。1931(昭和6)年の冷害凶作、翌1932年の大晩霜被害に より壊滅的な打撃を受けます。北海道議会では根釧原野開発放棄論が主張されるほどで、移住者から は転住請願、ムシロ旗を立てての村民大会が相次ぎ社会的にも大きな騒動となりました。 移住者による命がけの陳情の末、北海道は「根釧原野開発5ヵ年計画」を策定し、「自力再生」 をスローガンに掲げて1933(昭和8)年から計画を実施。この計画により根釧原野は酪農業へと 大きく転換が図られました。とはいえ、酪農王国といわれるようになるまでには、昭和30年代から 着手される国営パイロット事業をはじめ、まだまだ多くの挑戦が続くのです。

人とモノを運ぶ道

別海村営軌道「旧奥行臼停留所」に残る車両と転車台

沿岸で発展した漁業、内陸で進められた農業、そのどちらにも欠かせないのが交通です。 標津や別海、斜里には多くの駅逓所が置かれ、そのなかの一つ、別海町で唯一保存されているのが 「旧奥行臼(おくゆきうす)駅逓所」です。このほか奥行臼地区には国鉄・標津線「旧奥行臼駅」、 別海村営軌道「旧奥行臼停留所」という3つの時代の交通遺産が保存されています。

旧奥行臼駅逓所

1937(昭和12)年に全線開通した国鉄・標津線は、根室海峡の鮭へと つながる道として多くの人の往来を促しました。鮭漁は網入れから水揚げ、 加工も含めて多くの労働集約が求められ、漁期には多くの労働力を外から招き 入れる必要があったのです。標津線はまだ秋鮭不漁だった開通当時から、 遠く青森から来る出稼ぎ労働者たちを乗せて走りました。1970年代から鮭漁が 復活し、前年比2倍の漁獲量更新を繰り返すようになると、出稼ぎ労働者たちの 往来はさらに活発になっていきます。もちろん、水揚げ後塩漬け加工した大量の 鮭も標津駅から貨物列車で全国へ向けて出荷されていきました。
昭和30年代には近代酪農のスタートとなる根釧パイロットファームへの入殖者を乗せ、 昭和40年代以降は北海道観光ブームに魅せられた多くの観光客が利用しましたが、 1989(平成元)年、惜しまれながらも全線廃止となりました。

昭和30年前後の標津の「青森衆」を含む鮭漁師たち