Story3

メナシの地で会津藩士が
灯した産業の光

江戸時代、根室海峡沿岸に進出した和人は、ここに鮭漁の漁場を拓きます。
しかし、当初の搾取的経営は労働力となったアイヌの反感を買い、幕府をも巻き込む騒動に発展したこともありました。
根室の金刀比羅神社、標津の標津神社は、それぞれ海峡沿岸一帯の鮭漁を管理した根室上会所、根室下会所の社を前身とし、 北海道最東の海を全国へとつないだ船の「道」の歴史をいまに伝えています。


18世紀以降千島列島周辺では、鮭を求め北上する和人と、ラッコの毛皮を求め南下するロシア人の衝突が繰り返されます。 野付には日本東門の国境警備と開拓を担った「会津藩士の墓」があります。
標津代官南摩(なんま)綱紀(つなのり)は、文化の異なるアイヌと和人が共に開拓に臨む水産業のまちづくりを構想し、 その思いを「標津番屋屏風」に込めました。
当時鮭は高級魚で、中でも当地の鮭はその品質の良さから、江戸時代のブランドの一つとなっていました。 明治11年、北海道開拓使が西別川河口に「別海缶詰所」を開設。工場はやがて民営化され、国後島を含む海峡沿岸に続々と増設されていきます。

屏風絵に描かれた会津藩の標津

一隻(せき)の屏風に描かれた、小舟が連なる大きな川と、そのほとりで忙しそうに働くアイヌの人々。 小舟に満載しているのは鮭で、舟から降ろされた鮭は背負い籠で小屋へ運ばれていく。 小屋では塩をまぶした鮭を山のように積み上げて水分を抜き、じっくり熟成させた鮭の加工品「山漬け」が作られているー。
この「標津番屋屏風」が描かれた1864(元治元)年、根室海峡沿岸のメナシの地は会津藩の領地でした。 屏風絵が描かれるまでの背景を追ってみましょう。


18世紀、松前藩の交易の範囲は、千島列島に連なる国後島、さらに択捉島まで拡大し、本州向けの蝦夷地産物として、 それまでのラッコ毛皮や鷲羽などの軽物に加え、鮭・鱒などの肥料用のしめ粕や、塩鮭・塩鱒が重要な品となっていました。 これらはアイヌの人々を酷使して生産され、1789(寛政元)年のアイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」の きっかけとなりました。
同じころ、ロシアがラッコ毛皮を求めて千島列島を南下し、択捉島の手前のウルップ島まで達します。 18世紀後半にはロシア船がたて続けに蝦夷地へ来航しました。根室を訪れた使節ラクスマンは、 日本との通商を申し出、19世紀に入ると使節レザノフが長崎を訪れ通商を求めました。
しかし、幕府が拒絶したことで択捉島の会所(交易の拠点)がロシア海軍士官から襲撃されます。 さらにロシア海軍のゴローウニンらが極東沿岸調査の途中、国後島に上陸。拿捕したところ、 報復として根室場所請負人の高田屋嘉兵衛が野付半島沖でロシアに拉致される事件も起こったのです。

会津藩がこだわった「メナシの鮭」

『鱒形図拾壱品鮭形図四品』(加賀家文書館所蔵)

根室海峡や千島列島でロシアとの接触や衝突が増すなか、1855(安政2)年、 日露通好条約が締結されます。択捉島とウルップ島間に国境が定められると、 蝦夷地の大部分を幕府が直轄。その後、東北諸藩に蝦夷地を分割して領地として与え、 国境の北方警備と領地の開拓を命じました。
会津藩の蝦夷地統治は1860(万延元)年から始まり、領地は松前藩の商場だった根室場所のうち、 西別(現在の別海町本別海)から知床半島までと、網走を除く道北の紋別にいたる広い範囲です。 “国境”への最前線に配置された会津藩は、拠点を標津に定め本陣を置きました。標津が国後島に 一番近い集落だったことと、もうひとつの大きな理由は、川にあったのです。
先の屏風絵に描かれているのは標津川です。北方警備を命じられたころの会津藩は財政が苦しく、 秋に群れをなして川をのぼる鮭は、会津藩にとって宝の山でした。標津の初代代官を務めた 会津藩士・一ノ瀬紀一郎(きいちろう)が著した『北辺要話』には、「寒所(メナシ)領に 産する鮭は毎(ことごと)く江戸に運漕す」とあり、姿形がとても美しく、他所のものより も高価だからだと記されています。当時のブランド鮭を紹介した『鱒形図拾壱品鮭形図四品』 に記された、メナシの鮭の価値を会津藩は知っていたのです。根室場所は仙台藩と領地を 分け合いましたが、献上鮭で知られた西別川が会津藩領に入るよう境界を定めたという推測もあります。 会津藩は当初から鮭を藩の経営基盤として重視し、陣屋建設とともにシベツ(標津)場所 での鮭の漁場経営にあたりました。屏風絵は、その当時の様子がわかる数少ない史料のひとつです。

松浦武四郎と交流した会津藩士たち

なぜ、会津藩は事前にメナシの鮭の価値を知り、活用することができたのでしょう。 鍵を握るのが、北方探検家であり海防問題の専門家だった松浦武四郎です。 一ノ瀬は会津藩の蝦夷地分割統治の前年、武四郎のもとを訪れています。 このとき鮭の情報を得たのかもしれません。
もう一人、武四郎と交流があったのが、標津の2代目代官となる会津藩士・ 南摩綱紀(なんま・つなのり)です。南摩はアメリカの黒船(ペリー艦隊)に衝撃を受け、 国防上、西洋の新しい知識を取り入れる必要性を感じ、会津藩士で初めて洋学を 学んだ人物として知られています。武四郎のもとを頻繁に訪れ蝦夷地について知見を得ており、 代官として標津へ赴任する際にも、武四郎から情報をもらっていたと考えられます。

加賀伝蔵(加賀家文書館所蔵)

そして、蝦夷通詞(アイヌ語通訳)・加賀伝蔵の存在です。武四郎は野付通行屋で働いていた伝蔵と出会い、 アイヌの人々とともにあろうとするその姿勢を高く評価していました。一ノ瀬と南摩は、蝦夷地での経営に 欠くべからざる人材として、武四郎から伝蔵のことを聞いていたに違いないのです。
加賀伝蔵は、15歳で秋田から蝦夷地に渡ってクスリ(釧路)場所の飯炊きとして働き、 アイヌの人々と親しくするなかでアイヌ語を習得し通詞となり、アイヌ文化にも精通していました。 初代代官の一ノ瀬は「大通詞」の称号を与え、その2年後に赴任した南摩は経営トップの「シベツ場所支配人」 に抜てきして、伝蔵を重用したのです。

南摩綱紀と加賀伝蔵の「鮭のまち」

「標津番屋屏風」に描かれている南摩綱紀と加賀伝蔵(中央)

南摩が代官となった1862(文久2)年は、会津藩主・松平容保(かたもり)が幕府に京都守護職を任命され、 京都入りした年でした。藩の財政が逼迫するなか、同時に北方警備にもあたらなければならなかった時に、 南摩は新領地で豊富な資源を目にします。とくに鮭という水産資源に、海を持たなかった藩として今までに ない可能性を見たのだと思われます。そこで構想したのが、水産業を基軸とした領地をつくることでした。 従来のようにアイヌの人々を労働力として搾取し酷使するのではなく、和人と同様に自領の民として扱い、 ともに領地を開拓しようとしたのです。そのためには、伝蔵のような人材がどうしても必要でした。


「標津番屋屏風」には、南摩と伝蔵と思われる人物も描かれています。彼らの視線の先の活気ある様子は、 鮭を中心とした産業が築かれつつあったことを感じさせます。現在につながる「鮭のまち」の原型は、 このとき出来上がっていたのです。結局、1868(慶応4)年に戊辰戦争が起こり、江戸幕府が終焉を迎え、 南摩の構想が実現されることはありませんでした。しかし、時代が明治に変わり、蝦夷地が北海道になった時、 新たな産業の芽吹きが起こり、南摩の思いがこの地に引き継がれていくのです。

近代産業の扉を開いた鮭の缶詰

藤野缶詰所標津工場でのホタテ缶詰生産の様子(黒沢正義氏提供)

北海道の開拓を担った開拓使は、新たな産業として最新技術だった缶詰に着目。缶詰工場によって 移住者を定住させ、缶詰を国内外に流通させて国益につなげようと考えたのです。1877(明治10)年、 缶詰製造技術が発達していたアメリカから技術者を招へいし、道央の石狩に缶詰製造所を開業。 石狩川産の鮭・鱒で缶詰が作られました。産業化を目指した本格的な缶詰製造はこれが日本初です。
実は「第一等」の品質を誇る西別川の鮭で缶詰を作るのが開拓使の本命で、別海では石狩の1年前に 試作していましたが、札幌からの距離の問題などで石狩が優先されたといわれています。翌1878(明治11)年、 西別川河口に「別海缶詰所」を開業し、その後、厚岸、択捉島の紗那と立て続けに根室海峡沿岸に工場が作られていきました。


1887(明治20)年、別海缶詰所は根室の有力な漁場持ち・藤野辰次郎に払い下げられ「別海藤野缶詰所」 となります。明治20〜30年代は日清・日露戦争により、軍用として缶詰の需要が高まっていました。 藤野は標津にも工場をつくり、昭和に入る頃は標津がメイン工場となりました。藤野以外にも、 根室では酒造業の碓氷勝三郎らも缶詰工場を設け、缶詰製造業は根室海峡沿岸を代表する産業となり、 缶詰によってそれぞれのまちは発展し、昭和初期まで日本の漁業や貿易に大きな影響を与えていたのです。
幕末に会津藩士が灯した産業の火は、こうしてかたちを変えて、近代という新たな時代に強い光を放ちました。 そして現代にいたるまで、鮭は人々をつなぎ、まちに力を与える存在であり続けているのです。