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鮭でつながり合う
北方古代文化の人々

野付から北へ約10kmの場所に、激しく蛇行を繰り返すポー川が流れています。その流域には、 クレーターのようなくぼみが延々と連なる独特の景観が広がっている。古代の堅穴住居跡です。 くぼみの数は4,400を超え、日本最大の竪穴群「標津遺跡群」を形成しています。
この遺跡には、一万年前から17世紀に至るまで途切れることなく人が暮らし続けました。 遺跡を発掘すると、あらゆる時代の堅穴から多量の鮭の骨が見つかります。ここは毎年秋、 鮭を求め繰り返し集まった人々の「道」の集積地であり、自然との長い共生の歴史をいまに伝えています。

標津遺跡群を残した人々がどこから集まっていたのかは、根室海峡沿岸に残るチャシ跡の存在から推測できます。 チャシ跡は崖際などを溝で区画した、13~18世紀のアイヌの遺跡で、その本質はコタン(村)共有の神聖な 場所としての役割にありました。北海道各地に残るチャシ跡の多くは、内陸部の河川合流点付近にあり、 当時川筋を通じた交通網としての「道」が発達していたことが読み取れますが、根室海峡沿岸では、 野付や沿岸一帯の河川河口付近に、海に面してチャシ跡が築かれています。この地では河口を湊とし、 古くから海峡を通じた交通網を発達させてきたのです。

一大竪穴群が残る地・標津町

野付半島から根室海峡沿いに少し北上した、知床半島の付け根にあたるまちが標津町です。 基幹産業である漁業のなかでも秋鮭漁はかつて全国有数の水揚げ量を誇り、“鮭のまち” として知られています。根室海峡沿岸には鮭が遡上する川が幾筋も流れていますが、なかでも、 はるか昔から鮭を求めて多くの人々が集まったのが現在の標津町。町内には約1万年前の縄文時代 から途切れることなく人々が暮らした竪穴住居跡が、川の流域を中心に約4400見つかっています。
寒冷な気候が有機物の分解を遅らせ、竪穴のくぼみが埋まらずに形が保たれて、日本最大の竪穴群 「標津遺跡群」として残されました。この遺跡の顕著な特徴は、どの時代の竪穴跡からも多くの鮭の 骨が見つかっていることです。鮭の利用を重視した暮らしが、1万年近くにわたって標津の地で続いたことを物語っています。

鮭の骨が7割の
縄文遺跡

標津町ポー川史跡自然公園内にある国指定史跡「伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡」は、 標津遺跡群の中心的な遺跡です。標津湿原の奥の、小高くなった段丘上の森の中に縄文から 擦文の竪穴住居跡がくぼみとなって残り、その数は確認できるものだけで約2500と、 見つかった竪穴跡の半分以上がここに集中しています。公園内ではその一部分を見ることができます。

「伊茶仁カリカリウス遺跡」の竪穴住居跡

伊茶仁とはアイヌ語でイチャン(鮭が産卵するところ)が由来とされています。 遺跡のある段丘に沿って流れるポー川は、根室海峡に注ぐ伊茶仁川の支流で、 遡上した鮭の産卵に適した場所でした。縄文文化の竪穴跡などからは、約6千年前の 縄文前期から中期、晩期、そして続縄文時代以降の竪穴からもサケ科魚類の骨が出土 しています。標津遺跡群の中の縄文文化期の遺跡の調査では、出土した食料の遺物の 約7割をサケ科の魚が占めていたのです。
ほかの縄文遺跡では様々な食べ物のごく一部として鮭が出ることはありますが、 鮭主体で見つかることは少なく、同じように鮭をおもな食料としていた札幌など 石狩川下流域では5割ほどなので、標津がいかに突出して多いかがわかります。


近年、約500年前のアイヌ文化期の遺跡から出土したサケ科魚類の骨に対してDNA 分析を行い種の判別を行ったところ、ほとんどがシロザケだと分かり、秋に遡上する 鮭を捕っていたことが明確になりました。
しかし、アメマスやサクラマスなど春から夏にいるサケ科の魚は不思議と見つかっていません。 なぜ秋以外の季節には捕らなかったのかは疑問ですが、シロザケばかりなのは、 秋の鮭漁の時だけ標津に人が集まっていたからではないかと考えられています。
根室海峡沿岸の根室や羅臼などのまちにも、それぞれ多くの遺跡がありますが、 鮭の出土はそう多くはなく、鮭が豊富にいたはずの地域でありながら、ほかの遺跡周辺では あまり捕っていなかったと考えられています。根室海峡沿岸の人々は、秋は標津へ移動して 鮭漁のための集落をつくったのでしょうか。捕った鮭は保存食として皆で干鮭に加工し、 鮭の時期が終わると別の獲物の拠点へ移動して集落をつくる…季節ごとに拠点を変えながら、 根室海峡沿岸をひとつのフィールドとする暮らしがあった可能性が見えてくるのです。

海獣から鮭中心の
暮らしへ

サケ科魚類の骨は、伊茶仁カリカリウス遺跡の、10世紀初めのトビニタイ文化の 竪穴跡からも大量に見つかっています。「トビニタイ文化」は根室海峡一帯にあった 地域性の高い文化です。オホーツク海沿岸や千島列島には、5世紀ごろ大陸から渡って きた人々によるオホーツク文化が広がっていました。
それが、石狩川を中心とする石狩低地帯から北海道全域に広がっていた擦文(さつもん) 文化と接触し、10世紀ごろにトビニタイ文化として花開きます。トビニタイ文化の集落跡 が見つかっているのは、現在のところ標津と羅臼、そして対岸の国後島と択捉島に限られています。 少なくともこの範囲は彼らの活動範囲だったと考えられるのです。

伊茶仁カリカリウス遺跡には、クジラやアザラシなど海獣を主体としたオホーツク文化の暮らしから、 擦文文化と同じ鮭・鱒を主体とした暮らしへ変わりつつあった直後の竪穴跡が多数見られます。 大量に出土したサケ科魚類の骨は、文化の変わり目の証しとして重要な意味を持っているのです。

竪穴跡の炉から見つかったサケ科魚類の骨。ポー川史跡自然公園ビジターセンターで見ることができる

トビニタイの人々は、命と暮らしを支える糧として鮭を選びました。種の判定が終わっていないため シロザケかどうかはまだわかっていませんが、そうだった場合は大規模な秋の集落という可能性もあります。 きっと対岸の島々の集落からも人々がやってきたに違いなく、干鮭にして冬の保存食とし、また質の良い 標津の鮭は近隣の人々との交流も促したと思われます。
その後、トビニタイ文化は擦文文化に吸収されたと考えられていますが、その過程はよくわかっていません。
擦文時代の竪穴は国後島や経由地と考えられる野付半島にも見られることから、根室海峡一帯はずっと、 鮭でつながるひとつの文化圏だったと考えられています。
さらにこの範囲は、のちにメナシと呼ばれる地に生きたアイヌの人々とも重なってきます。明らかになって いない擦文時代からアイヌ文化成立までの過程のヒントが、ここに隠されています。

地域性を継承した
海峡のネットワーク

タブ山チャシ跡。左手の海との間に流れるのが茶志骨川

標津の市街地から別海町方面へ向かう途中、野付半島へ入る道との分岐点に、 こんもりとした丘が横たわっています。「タブ山チャシ跡」です。丘の上にはチャシという アイヌ文化期の遺跡が残っています。
チャシは北海道全域にあり、エリアの周囲を溝で囲って戦いのための砦や城とされることが多いのですが、 本来は聖域として築かれたのが始まりとされています。そして、時代とともにさまざまな機能を持つ場に なったと考えられています。
そのひとつが交通の結節点に設けられた“道しるべ”としての役割。北海道のチャシの多くは河川の 中流〜上流域に築かれていることが多く、川はアイヌの人々にとって道であり、流域に残るチャシ跡の存在は、 河川を通じたネットワークを発達させていたことを物語っています。

根室半島チャシ跡群(ヲンネモトチャシ跡)

一方、タブ山チャシをはじめとする根室海峡沿岸のチャシは、河口を見下ろせる場所に築かれていることが特徴です。 この地域では、河口を湊とする集落を築き、海を通じたネットワークを発達させていたことがうかがえるのです。 タブ山チャシ跡の前を流れる茶志骨川は野付湾へと注ぎ、野付湾から外洋へは、川と海のあいだの狭い陸地に舟を あげて運べば簡単に移動することができ、松浦武四郎の『東蝦夷日誌』には、その場所は“チプルー(舟の道)”と いう地名で呼ばれていたとあります。
対岸の国後島のチャシ跡も同じく河口にあり、古来の鮭を媒介にした文化圏を引き継いで根室海峡を通じた ネットワークが培われ、メナシという地域性のあるアイヌ文化がここに始まっていたのです。
タブ山チャシ跡に立つと、根室海峡北部を一望できます。国後島の島影もすぐそこ。
海を中心とする広い世界をひとつのものとした時代の人々は、この景色をどんな思いで眺めたのでしょう。