資源回復を待ち畜産が暮らしを支えた
標津漁協は、鮭鱒ふ化事業や、ほたて稚貝の移植、チカの養殖などの浅海増殖の継続、イカ釣り漁やするめ加工などの努力を続けるが、水産資源の不足は続き、活路を出漁以外に求めざるを得なかった。そこで、標津町や北海道信漁連などの協力のもと、黒毛和牛を導入し、漁師に貸し付けて飼育させるという方策に踏み切った。牛の購入にあたっては、鳥取県や九州各県にまで足を運び、熊本県で優良な黒毛和牛を見つけた。1961、1962(昭和36、37)年の2年間にそれぞれ20頭ずつ、合計40頭を漁協が購入。希望する漁協組合員に一頭につき約5万円で貸し付け、3年で償還させるシステムを確立した。この黒毛和牛の飼育は不漁の時期に、組合員の家計をずいぶんと助けた。兄が漁業、弟が畜産業と兄弟で分業していた家もあったという。
当時、野付半島にあった牧場では年に2回、大規模な牛の競り市場が開かれていた。牛を飼育育している漁師が家族ぐるみで集まる一大行事で、牛が高く売れた漁師らは夜になると町の飲食店に繰り出し、ずいぶんにぎやかだったという。
野付半島には今も牛舎跡やサイロの跡が点在し歴史の足跡を伝えている。
1963(昭和38)年には、標津町崎無異に黒牛牧場が造成されるなどして、和牛の飼養は広がりをみせたが、1970年代に入り、長年取り組んできた人工ふ化事業がようやく実を結んだことで鮭の来遊数が増加。標津で漁師が黒毛和牛を飼養することはなくなっていった。