鮭の聖地エコミュージアム構想根室海峡「食」Story

StoryⅥカニ

海のやっかいものが根室海峡に繁栄をもたらした

缶詰加工の技術とともに始まったカニ漁業

根室地方におけるカニ漁業は、1905(明治38)年、缶詰製造業の和泉庄蔵と碓氷勝三郎が国後島沿岸で操業したのが最初と言われている。カニはもともと、鮭・鱒漁の定置網をはいあがってくるやっかいもので、鮮度が落ちやすいうえ保存方法もなかったため、漁師の自家消費用としてのみ利用されていた。ほとんどは捨てられていたという。しかし、缶詰製造とつながることで、水産資源として成り立つようになっていく。とくに、味が濃厚で肉厚なタラバガニは缶詰に適していた。
カニ缶詰は、大変優れた技術により根室沿岸や国後島など千島列島の工場で製造された。碓氷勝三郎によって開発された、肉の変色を防ぐために硫酸紙で包む技術は、今や世界でスタンダードとなっている。碓氷のカニ缶詰は、世界的な博覧会で数々の賞を受賞するなど、海外でも品質の高さが認められていた。

カニがもたらした漁業の発展と労働者の文化

カニ缶詰工場の増加にともない、従来の手繰綱を用いた漁法ではカニの漁獲量が不足し始めた。明治40年ごろからは刺網と川崎船を使用した漁が行われるようになり、漁獲量は3倍近くまで膨れ上がった。
カニ漁船の増加により根室沿岸の資源が枯渇し始めると、漁場は沖合へと広がった。当初は、カニ漁船を汽船で沖合まで曳船していたが、カニの鮮度を落とさず早く運ぶために、石油発動機船を使用するようになる。動力船の導入はカニ漁業を著しく発展させたが、競争の高まりが資源の枯渇につながっていった。
無統制な状態で増え続けたカニ缶詰業者を、道庁が地区別に工場数を制限するなどして統合を推し進めたこともあり、1938(昭和13)年、根室沿岸の業者や工場が合同で「花咲蟹缶詰合同株式会社」を設立する。このように、根室地方のカニ漁業は、缶詰工場と直結して発展していったところに特徴がある。
缶詰工場は経済ばかりでなく、文化にも大きく寄与した。工場では多くの労働者が働いていたが、そのほとんどが出稼ぎの若い女性だった。彼女たちによって歌われた「根室女工節」などの労働歌は、今も民謡として歌い継がれている。

タラバガニ、そして花咲ガニ・毛ガニが主要な産物に

根室地方におけるカニ漁業は、明治末から昭和30年代までタラバガニがメインだったが、花咲ガニと毛ガニも重要な漁獲の対象であった。根室では1936(昭和11)年に花咲ガニの缶詰工場の操業が開始され、11工場で1万5200函(※1函は1⁄22ポンド缶が96缶入)が製造された。その後も工場の開業数・生産量ともに増加し、1938(昭和13)年には生産量が最多となる。終戦後、カニの漁獲高は千島列島の漁場の喪失により著しく減少したが、花咲ガニ漁は1945(昭和20)年から復興しつつあった。1950(昭和25)年には漁獲量が850トン、缶詰製造数は4370函となっている。しかし、1952(昭和27)年以降は缶詰製造が減少。花咲ガニはタラバガニと比べて漁獲量が少なく、缶詰原料として重要視されなくなってきたためと考えられる。
1955(昭和30年)以降、缶詰原料の主力だったタラバガニが急速に減少すると、毛ガニや花咲ガニの需要が高まっていく。その後根室地方のカニ漁業は、タラバガニ・花咲ガニ・毛ガニの3本柱で発展していくのである。
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「かにかご」によるカニ漁。

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ゆでると真っ赤になる花咲ガニは根室を代表する産物となった。

鉄砲汁

花咲ガニは「刺身」「ゆでる」「焼く」が一般的な食べ方だが、花咲ガニを具材にした味噌汁の「鉄砲汁」もカニの殻からのうま味が出汁となり、濃厚な風味を堪能できる。
根室市で開催される「根室かに祭り」でも鉄砲汁は大人気で、根室の郷土料理ともいえる味覚。
「鉄砲汁」という名はカニの足の身を出すために箸で突いている様が、鉄砲に弾を込めるように、あるいは銃身を掃除しているように見えるからといわれている。
北海道では毛ガニやズワイガニを使った味噌汁も鉄砲汁と呼ばれる。

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