明治以降、漁場持制度の廃止とともに昆布漁が発展
根室場所で昆布が産出されるようになったのは文化年間(1804~1818年)頃で、産出した昆布は函館で売りさばかれ、花咲郡内には船数や採取夫、昆布場が次第に増え、幕末になると主要な昆布場がほぼ完成している。それらは根室場所の大請負人である藤野家が経営し、明治時代に入っても昆布場の多くは藤野家、次いで柳田家が所有、各地から入植した漁業者の多くはその下で働く労働者に過ぎなかった。この頃はまだ昆布漁の飛躍的な発展は見られない。
1876(明治9)年に漁場持制度が廃止され、新たな生産者層の入植が許されると、昆布の生産高が一気に増加する。その主な要因は、開拓使による漁業資本貸与と広業商会(半官半民の商事会社)による資本金の貸与で、昆布生産者の独立に大きな役割を果たした。また、広業商会の解散後、1889(明治22)年に日本昆布会社が設立され、同商会と同様に資本金の貸与がされたことで根室の昆布漁は急速に発展していった。
1886(明治19)年の道庁統計によると、昆布生産の主要産地は釧路・根室・十勝で、根室の生産高は第2位、全生産高の約25%を占めている。
北海道の昆布産地は昆布礁により長昆布場、三石昆布、真昆布場、細昆布場、利尻昆布場の5つに分けられ、釧路・根室地域は長昆布場に属している。明治後期から三石昆布場の中心である日高沿岸の生産が減少し、真昆布場の中心である渡島地方も停滞してくると、釧路・根室地方の昆布がますます重要視されるようになった。