缶詰需要の増加と資源造成への期待
その後も鱒の漁獲高は鮭に遠く及ばないものの、明治時代に入ってからも徐々に増加傾向にあった。明治30年前後になると鰊や鮭漁は急激に漁獲高が減少したが、鱒漁に大きな変化はなく、むしろ年次的には増加傾向を示していた。
これは、鮭が豊富に獲れていた時期には鱒には目が向けられず、鮭が減少するにつれて漁夫たちが鱒を獲るようになり、漁獲高が向上したということもあったようだ。また、鱒漁が盛んになった要因として、鮭・鱒の缶詰技術が発達し、缶詰の素材として鱒の重要性が認識され始めたことも挙げられる。
特に1894(明治27)年の日清戦争後は缶詰製品の重要性が認識され、軍需品や輸出品として鮭・鱒缶詰の生産高は次第に増加し、1895年~1898年にかけて国後島を含む根室海峡沿岸に缶詰工場がいくつも設けられるなど、目覚ましい発展を遂げた。そこでは鮭よりも鱒缶詰が多く作られており、このことも鱒漁獲高の相対的増加をもたらした要因である。
しかし、かつて根室地域で豊富に水揚げされていた大型サクラマスが昭和30年代頃から次第に減少し、魚体も小ぶりになっていった。その後も地域の鮭・鱒資源は減少が続き、人工ふ化放流事業に着手するなどの努力が続けられている。
標津では1952(昭和27)年からサクラマスの人工ふ化放流が実施され、国・道・民間企業が協力して取り組んでいる。ただしサクラマスはシロザケやカラフトマスのように、ふ化後まもなく海に降りることができず、海水に適応する52gサイズまで淡水生活をおくる性質があり、施設や管理、経済面などから資源増大までには時間がかかるといった課題もある。
そうしたなか、標津川や忠類川では近年自然産卵ヤマメ(サクラマスの幼魚)が増加傾向にあり、人工ふ化放流と自然産卵を合わせて、河川の生産力にゆだねた資源造成が行われている。
一方、カラフトマスは標津で1977(昭和52)年に本格的なふ化放流を開始している。昭和50年代後半よりシロザケの資源が安定してきたことで、漁業者よりカラフトマスの資源造成の要望が出され、ハード面、ソフト面から増殖事業が推進されてきた。しかし、放流数が増えれば必ず来遊数が増えるという構図にはならず、漁獲の年変動が激しい状態が続いている。