質と量で他地域を圧倒
江戸時代になると、根室海峡沿岸に進出した和人はこの土地でとれる鮭の質と豊かさに着目して漁場をひらいた。
18世紀、松前藩はすでに交易の重要品目として鮭・鱒の加工品を扱っており、19世紀半ばに根室海峡沿岸を領地として与えられた会津藩は、鮭を藩の重要産品に位置づけ、漁場経営にあたった。
標津の初代代官を務めた一ノ瀬紀一郎は「北辺要話」の中で、『海産物はたいへん豊富である。春は鰊を漁獲し、夏には鱒を漁獲し秋の季節には鮭を漁獲する。中でも、鮭を最大の産物としている。「メナシ」で漁獲する鮭は全て江戸へ運搬する。これは鮭の品物がきれいで、品位が外のところより高いからだという』と記録している。
メナシは根室海峡沿岸地域のことで、当時は会津藩の領地である。幕府に北方警備を命じられたころの会津藩は、財政が苦しく、秋に群れをなして川を遡る鮭はいわば宝の山にみえたことだろう。また、当時から「献上鮭」で知られていた西別川が藩の領地に入るように境界を定めたともいわれている。
献上鮭とは1800(寛政12)年から幕府に届けられた塩引きの鮭で、その評判は高く、毎年藩の重要行事として献上鮭作りが行われ、幕末まで続いた。
このように内外に質の高さが知れ渡っていた西別川の鮭は、明治時代になると北海道開拓使によって当時の最新技術で製造する缶詰の原料とされた。1878(明治11)年、西別川河口に「別海缶詰所」が建設され、ついに海外にまで輸出されるようになった。
しかし、明治後半から天然資源が枯渇し、鮭は次第に不漁になると、漁業資源の強化・開拓を目指して人工ふ化事業が始まる。1891(明治24)年、西別川に初めて人口ふ化場が建設されると、翌年には標津川、羅臼川、忠類川にも施設が建設され、この地域は北海道でもっとも早く人口ふ化場事業体制が整うこととなった。