「知床の方の海上に神様が袋の中の魚の骨をばらまくと、それがみるみるサケの姿になって、人々の住む村々のある川をのぼってくるのである」。戦前からアイヌ文化を精力的に記録し続けた更科源蔵は、自らの調査成果を記した著書『コタン生物記』の中で、鮭に対するアイヌの考え方をこのように紹介している。神の魚「カムイチェプ」と称される鮭は、「神様からの贈り物」を意味しているのだ。
アイヌ伝承の中で鮭の誕生の場が知床沖であることは興味深い。舞台となる根室海峡は、知床沖で1000m以上もの水深があるのに対し、標津沖の水深は20mにも満たない。ここに北から南へと流れ込む宗谷暖流が強い沿岸流を生み出すことで、海底深くの栄養分が常に巻き上げられていく。さらに知床連山を源にする川や、湿原を流れる西別川・標津川がもたらす大地からの栄養分、そして当地では初春の風物詩となる流氷が、大陸からもたらす栄養分により、根室海峡には海棲生物にとって格好の生息環境が形成されている。
川で生まれ、海へと旅立ち、再び生まれた川へと帰る鮭。太古より繰り返される自然の摂理の下、鮭は根室海峡沿岸の多種多様な生命とつながり、大地と海との栄養循環を支えている。やがて人類ともつながりを持ち始め、アイヌに「神様からの贈り物」と呼ばせる存在となっていくのだ。
根室海峡沿岸の自然と歴史文化の核となる存在、「鮭」に焦点をあてた地域の物語、日本遺産「鮭の聖地」の物語~根室海峡一万年の道程~。このストーリーを象徴する8つの生産品を通じ、歴史の声に耳を傾けてみよう。
根室海峡沿岸の恵みを伝える -『鱒形図拾壱品鮭形図四品』-
加賀伝蔵が記した”カタログ”
豊かな根室海峡の水産物。その根っこにあるのが鮭であり、鮭の存在がこの地の人々の暮らしを一万年以上にわたって支えてきた。
そして、江戸時代にはすでに、根室海峡の鮭や鱒はブランドとして広く知られるようになっていた。
当時の評価を伝える古文書がある。江戸時代末期から明治の初めまで、代々、釧路・根室地方の場所請負人のもとで働いた加賀家が書き残した「加賀家文書」だ。文書の多くはアイヌ通辞(通訳)であった三代目・伝蔵が書き残したもの。図版を用いた丁寧な記録や、交流があった人々との手紙などが残されている。
「加賀家文書」の中で根室地域の鮭・鱒の特徴がわかりやすく表現されているものが「鱒形図拾壱品鮭形図四品」。この書物は、主に根室場所で獲られた鮭・鱒の種類について描かれ、「イシカリ」(石狩)や「トカチ領」(十勝)の鮭鱒についても書かれていることから、当時の蝦夷地の「鮭と鱒のカタログ」ともいえる。
根室海峡沿岸の鱒・鮭は「イチャニ」鱒や、「ニシベツ鮭」、「メナシ鮭」などが描かれており、「ニシベツ鮭」については、『鼻先から尾まで二尺三寸(70cm以上)を丈木として、御献上となるなり』と書かれている。
加賀家文書「鱒形図拾壱品鮭形図四品」(提供:別海町郷土資料館)
幕府献上品というお墨付き
加賀家文書を構成する文書の一つに、標津が会津藩の領地となった際の初代代官・一ノ瀬紀一郎がまとめた「北邊要話 穏川領萱領寒所領地裡」がある。そこには根室地域の鮭・鱒の価値が次のように端的に説明されている。『海産物はたいへん豊富である。春は鰊を漁獲し、夏には鱒を漁獲し秋の季節には鮭を漁獲する。中でも、鮭を最大の産物としている。「メナシ」で漁獲する鮭は全て江戸へ運搬する。これは鮭の品物がきれいで、品位が外のところより高いからだという』。メナシとは東方を意味するアイヌ語で、当時は根室海峡沿岸地域を指していた。
そして、西別川(別海町)の鮭は1800(寛政12)年から幕府への献上鮭(御上鮭)となっており、このことからも根室海峡の鮭がいかに高品質であったかが分かる。
献上鮭についての記録は豊富で、多くの資料の文書や図版から、御上鮭を仕立てる時期や選ぶ鮭の基準、製法、そして箱詰めに立ち会う役人たちは、朝湯を使い麻の上下を着用することなど、献上鮭の品質を維持する細やかな手続きが記されている。
松浦武四郎も切望した味覚
メナシの鮭の美味さが人々を惹きつけていた様子は、伝蔵と交流があった北海道の名付け親・松浦武四郎の書簡からも読み取ることができる。武四郎が伝蔵にあてた「江戸では手に入らない鮭の筋子を送ってほしい」と依頼する書簡も残されている。
鮭はアイヌにとっても大切な資源だった。加賀家文書と同時期に描かれた「標津番屋屏風」には、アイヌの住居チセの前に並ぶ、干鮭の姿をみることができる。長い冬を乗り切るうえで、毎年秋に遡上する鮭は、安定した食資源として正に生命を支える存在だったのだろう。
「加賀家文書」をはじめとする江戸時代の多くの文書や図版等から、根室海峡沿岸の鮭・鱒が、古くから人々を楽しませ、高品質なブランド品として扱われてきた歴史を知ることができる。
鱒形図拾壱品鮭形図四品。加賀家文書館に所蔵されている
「高品質を封入」して開かれた世界への扉 -現代のブランドを多数生み出す契機となった缶詰産業-
根室海峡に掲げられた五稜星
江戸時代からブランドとして知られた根室海峡の鮭は、明治になると世界にその名を広め出した。
1878(明治11)年、開拓使は別海村の西別川河口(現別海町本別海)に缶詰所を設置する。
日本の缶詰は1871(明治4)年に長崎での試作が嚆矢とされているが、本格的な製造は開拓使が「お雇い外国人」を招聘して北海道で缶詰工場を建設して始まった。
ほとんどの日本人が、缶詰とは何かを知らない時代のことだった。
最初は石狩缶詰所が1877(明治10)年に設立され、別海は2番目となったが、開拓使の本命は別海だった。根室海峡の鮭の品質の高さが、それだけ広く知られていことの証左ともいえる。
別海缶詰所を端緒に、根室海峡沿岸には次々と缶詰工場ができていった。
写真の「別海缶詰所」に掲げられた星印の旗は北極星を表わす「五稜星」と呼ばれる開拓使の記章で、民営化後もブランドデザインとして缶詰ラベルに使われた。同じく開拓使の事業に起源をもつサッポロビールの商標としても有名だ。
多彩なブランド水産品の契機となった缶詰の興隆
別海缶詰所にはトリートとスウェットという二人のアメリカ人が招かれ、缶詰製造の指導に当たり、生徒舎が併設されて全国へ缶詰の製造を広げた。
産業として期待が高かったものの、当初はまったく売れなかった。高価であることと宣伝不足が原因で、別海缶詰所は廃業の危機を迎える。しかしフランスから鱒の缶詰の大量注文が突然舞い込み、一気に息を吹き返し、廃止されていた択捉島の缶詰所を再開するほどだった。その後、欧米を中心に一定の評価を得るに至る。
1987(明治20)年に、官設の別海缶詰所は民営化され、藤野缶詰所となる。
日清・日露戦争後、兵士たちを通じて缶詰のよさが国民に広まり、標津や根室にも次々と民間工場が作られていった。缶詰業は根室地方繁栄の屋台骨となったが、一方で目先の需要をまかなうために乱獲となり、鮭・鱒の天然資源の枯渇という大きな問題も発生した。
人口ふ化の成果が現われるのは昭和40年代に入ってからであり、その間の暮らしをつないだ昆布やホッカイシマエビ、ホタテ等の根室海峡の豊かな水産資源はいま、鮭・鱒に続く現代のブランドとなっている。
また、漁業の傍ら畜産業へも乗り出す者たちもいて、海から大地へと地域の物語はつながれていった。
1878年7月22日の別海缶詰所開所式の風景。
一般にも公開されたため、当時の別海住民も写っていると思われる。
五稜星は1887(明治20)年に民間の藤野缶詰所となったが、以降も北極星のマークをブランドとして引き継ぎ、粗悪な類似品との差別化を図った(北海道大学付属図書館蔵)
別海缶詰所で使用されていたラベル(1883年頃)。
世界への輸出のため英語も併記されている(北海道立文書館蔵)
「根室女工節」の碑(写真提供:根室観光協会)
根室の酒蔵「碓氷勝三郎商店」は1887(明治20)年の創業。
酒造に加えて1894(明治27)年に缶詰加工業へ乗り出し、晩秋から
冬にかけて酒造り、漁期の春から秋に缶詰加工を行った。
碓氷勝三郎商店近くのときわ台公園には「根室女工節」の碑が建てられ、北千島の缶詰工場へ出稼ぎへ出た女性たちに歌われた労働歌が刻まれている。
「女工女工とみさげるな 女工のつめたる缶詰は 横浜検査で合格し
アラ女工さんの手柄は外国までも」
「工場の窓から沖見れば 白波わけて旗たてて 又も積んできた蟹の山
アラ可愛い女工さんまた夜業」
「故郷離れて来ておれば 文の来るのを待つばかり
千島がよいの便り船 アラ今日も来るやら来ないやら」
鮭の聖地食めぐり
持続可能な観光を目指すため、地域生産品の振興と共に、地域の自然や文化遺産の保護を図るプログラムです。
日本遺産「鮭の聖地」の物語~根室海峡一万年の道程~に込められた、地域の一次生産品を素材とする飲食メニューや土産品の地産地消・地産訪消を促し、地域の自然・文化遺産保護活動を支援しています。(外部サイトに移動します)