はるか一万年前の縄文時代から、根室海峡沿岸では鮭の利用を軸とした暮らしが続いてきました。かつての狩猟と採集で生きる暮らしの中で、毎年秋に遡上する鮭は安定した食料資源として貴重な存在だったことでしょう。当時の鮭は冬を乗り切る保存食として、天日で干し乾燥させ蓄えられていました。縄文時代の頃には既に行われていたこの利用法は、時代が下った江戸時代末期に描かれた標津番屋屏風でも、アイヌが保存用に鮭を干す様子が描かれています。そして現在も「鮭とばを干す風景」がこの地域の初冬の風物詩となっています。
江戸時代末期から明治の初めまで、代々、釧路・根室地方の場所請負人のもとで働いた加賀家が書き残した「加賀家文書」からは根室海峡の鮭の評価を知ることができます。文書の多くはアイヌ語通辞(通訳)であった三代目・伝蔵が書き残したもので、中でも根室地域の鮭・鱒の特徴がわかりやすく表現されているものが「鱒形図拾壱品鮭形図四品」です。この書物(図版)は、主に根室場所で獲られた鮭・鱒の種類について描かれ、イシカリ(石狩)やトカチ領(十勝)の鮭・鱒についても書かれていることから、当時の蝦夷地の鮭と鱒のカタログともいえます。とりわけ西別川の鮭は最も品質が良いとされ、当時将軍家への献上品として贈られていました。この時の鮭の保存方法が、北前船でもたらされた塩を使った塩蔵法、「鮭山漬の製法」です。大量の塩をまぶした鮭を積み上げ、数日かけて鮭の重みで水分を抜いて熟成させることで旨味を増すこの製法は、山のように鮭を積み上げることから 「山漬け」と呼ばれました。その製造法は先ほども登場した標津番屋屏風の中にも描かれています。根室海峡沿岸で古代から利用され続けた鮭が、江戸時代に北前船でもたらされた塩と出会うことで生まれた技術です。