明治30年以降、鮭鱒資源が減少すると、漁業者はエビやホタテなど新たな水産資源開拓と共に、漁の合間の副業として、馬産や肉牛生産を行うようになります。半世紀以上におよび漁業と畜産農業を兼業する半農半漁のくらしが続きました。この時代の名残が、「海辺の牛舎跡」としていまも残されています。
一方で根室海峡沿岸の村々では、不安定な水産業に代わる安定した産業を創出するため、明治時代末期以降、根釧台地内陸の開拓が進められます。全国から多くの入殖者が移住し、本格的な内陸開拓が始まったのです。この内陸への人々の進出を後押ししたのが、駅逓から殖民軌道、国鉄標津線へと発展した陸上交通網です。駅逓とは、人や物資を馬や人足を継立ながら輸送した初期の陸上交通手段で、明治時代以降、北海道の鉄道未発達地域を中心に発達した制度です。「旧奥行臼駅逓所」(別海町)は1910(明治43)年に設置され、1930(昭和5)年まで利用された現存する数少ない駅逓所跡です。周辺には殖民軌道の「旧別海村営軌道風蓮線奥行臼停留所」、旧国鉄線の「旧標津線奥行臼駅跡」も残り、ここが原野開拓の拠点であった歴史を物語っています。