幕末、会津藩は蝦夷地警備と開拓を命じられ、藩士とその家族を蝦夷地に派遣します。野付の「会津藩士の墓」や、標津市街南にある「会津藩陣屋跡」は、当時の歴史を伝える文化財です。会津藩の蝦夷地開拓開始から2年後の文久2(1862)年、会津藩士南摩綱紀が代官として標津にやってきます。当時会津藩は京都守護職を拝命し、藩主松平容保は京都にいました。南摩は当初、この藩の一大事の中で京都とは真逆の蝦夷地に赴任しなければならないことに、悲嘆の思いを抱いていました。しかし、根室海峡沿岸の地にたどり着いた時、そこで優良な木材資源や、質量ともに優れた鮭をはじめとする水産資源に恵まれた豊かな土地の姿を目の当たりにします。将軍家への献上鮭として「山漬けの製法」がいまに伝わる西別川の鮭「ニシベツ鮭」をはじめ、標津川の「メナシ鮭」、伊茶仁川の「イチャニ鱒」など、この地域の品質の高い鮭鱒を活かした新時代構想は、青写真として「標津番屋屏風」に描かれ、その実現に向けた取組みが進められました。
安政6(1859)年、会津藩は国境警備と蝦夷地開拓のため、藩士とその家族約200名を蝦夷地に派遣しました。現地で代官として陣頭指揮を執った南摩綱紀は、標津場所通辞を務めた加賀伝蔵と共に、松浦武四郎が目指したアイヌと和人が共に臨む蝦夷地開拓を実践します。会津藩が幕末に北方警備を行った9年間のうち、綱紀が代官を務めたのはわずか6年でしたが、この時期に、後の水産のまち発展への礎が築かれるのです。