1792年にアダム・ラクスマンらが大黒屋光太夫ら日本人漂流民3名を伴って根室地方に来航しました。当時、外交上の重要な事項はこの地域にいた松前藩の役人では判断できず、幕府の回答を待つことになりました。その間の約8ヵ月、ラクスマンらは現在の根室港に滞在し越冬しています。この時、松前藩士らは、ロシア人の生活の様子を細かく絵図や文字で記録しました。ラクスマンらが乗ってきたエカテリーナ号や船長の姿は「俄羅斯舩之圖」「ワシレイラフロウ之圖」に描かれ、ほかにもロシア人が建てた小屋の内部の様子や所持していた道具など、多岐に渡る絵図が残されました。
寛政4(1792)年、ロシア使節アダム・ラクスマンらが根室に来航し、歴史上最初の日露交渉が行われました。その後文化8(1811)年には国後島に上陸したディアナ号艦長ゴローニンが松前藩により捕縛、翌年には根室地方の場所請負人・高田屋嘉兵衛がロシア側に拿捕され、日露関係は緊迫します。しかし嘉兵衛が日露の架け橋となりゴローニンは解放。この日露外交史の第一幕は重要な歴史として今に語り継がれています。