鮭の聖地エコミュージアム構想12のエピソード

Episode05 クナシリ・メナシの戦い

江戸時代中期の1700年代、根室海峡沿岸にも和人が進出し、アイヌを労働力とした漁場が形成されます。この時、漁場経営を行ったのは、和人商人飛騨屋久兵衛です。飛騨屋は当時最新の大網漁を導入し、アイヌを労働力に投入します。しかし、その扱いは極めて過酷で、漁場番人らによるアイヌへの暴力が横行しました。寛政元(1789)年、耐えかねたアイヌの若手リーダーたちが武力行使に及び、「クナシリ・メナシの戦い」が起こります。そしてこの事件は、「蝦夷地」が大きく変容するきっかけとなっていくのでした。

関連する構成文化財

根室地域でのアイヌと和人の関わりは1701(元禄14)年、松前藩が霧多布に商場を開いて以来、次第に強くなっていきました。1773(安永2)年に飛騨屋久兵衛が四場所の経営権を松前藩から委譲され本格的な漁場開発が始まります。飛騨屋によって天明年間(1781~1789)に創祀された、根室地方最古の社を起源とするのが現在の「標津神社」です。

根室海峡沿岸への飛騨屋進出は、この地域に当時最先端の漁業技術をもたらしましたが、一方で異文化理解の欠如によるアイヌへの差別は、漁場労働力となったアイヌへの暴力へとつながり、クナシリ・メナシの戦いを引き起こすこととなりました。

05-1-『夷酋列像』クナシリ首長ツキノエ(個人所蔵・画像提供北海道博物館)_05-2-『夷酋列像』ノッカマップ首長ションコ(個人所蔵・画像提供北海道博物館)-min

「夷酋列像」左/クナシリ惣乙名ツキノエ、右/ノッカマフ乙名ションコ(個人所蔵、画像提供:北海道博物館)

05-3-標津神社(提供_標津町教育委員会)-min

標津神社( 提供:標津町教育委員会)

この戦いは、はじめに国後島のアイヌが蜂起し、漁場番人らを殺害します。その後、現在の標津町忠類沖に停泊していた大通丸を襲撃し、次に対岸の当時メナシと呼ばれた標津の漁場が襲われます。この時蜂起したのは国後島とメナシの若手アイヌ130名で、殺害された漁場番人らは71名に及びました。事件の一報を受けた松前藩は、根室地方に向けて軍隊を派遣します。蜂起したアイヌたちは松前藩軍隊を迎え撃つため、国後島では「深山ニ楯籠リ塁ヲ築キ隍(ほり)ヲ掘リ・・」チャシが築かれた記録が残されています。しかしアイヌと松前藩の軍隊の武力衝突には至らず、軍が根室に到着する前に、北海道東部一帯のアイヌの有力者たちの手によって戦いは収められます。蜂起したアイヌたちは根室のノッカマップに集められ、首謀者37名が処刑されました。この時、戦いを収めるのに尽力した12名のアイヌは、松前藩にその功績を称えられ「夷酋列像」と呼ばれる肖像画に描かれます。また事件の後、飛騨屋の後継者により、「寛政之蜂起和人殉難墓碑」が建立されます。

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寛政の蜂起和人殉難墓碑(提供:根室市教育委員会)

このクナシリ・メナシの戦いは、15世紀のコシャマインの戦い、17世紀のシャクシャインの戦いと比べると小規模な事件です。しかしこの戦いをきっかけに、幕府は千島列島を南下するロシアへの警戒を強め、それまで日本の外の地域とみてきた蝦夷地の内国化に力を入れ始めます。こうしてチャシを中心としたアイヌの自立した社会は解体されていくこととなりました。

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「夷酋列像」左/クナシリ惣乙名ツキノエ、右/ノッカマフ乙名ションコ(個人所蔵、画像提供:北海道博物館)

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標津神社( 提供:標津町教育委員会)

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寛政の蜂起和人殉難墓碑(提供:根室市教育委員会)