根室地域でのアイヌと和人の関わりは1701(元禄14)年、松前藩が霧多布に商場を開いて以来、次第に強くなっていきました。1773(安永2)年に飛騨屋久兵衛が四場所の経営権を松前藩から委譲され本格的な漁場開発が始まります。飛騨屋によって天明年間(1781~1789)に創祀された、根室地方最古の社を起源とするのが現在の「標津神社」です。
根室海峡沿岸への飛騨屋進出は、この地域に当時最先端の漁業技術をもたらしましたが、一方で異文化理解の欠如によるアイヌへの差別は、漁場労働力となったアイヌへの暴力へとつながり、クナシリ・メナシの戦いを引き起こすこととなりました。
この戦いは、はじめに国後島のアイヌが蜂起し、漁場番人らを殺害します。その後、現在の標津町忠類沖に停泊していた大通丸を襲撃し、次に対岸の当時メナシと呼ばれた標津の漁場が襲われます。この時蜂起したのは国後島とメナシの若手アイヌ130名で、殺害された漁場番人らは71名に及びました。事件の一報を受けた松前藩は、根室地方に向けて軍隊を派遣します。蜂起したアイヌたちは松前藩軍隊を迎え撃つため、国後島では「深山ニ楯籠リ塁ヲ築キ隍(ほり)ヲ掘リ・・」チャシが築かれた記録が残されています。しかしアイヌと松前藩の軍隊の武力衝突には至らず、軍が根室に到着する前に、北海道東部一帯のアイヌの有力者たちの手によって戦いは収められます。蜂起したアイヌたちは根室のノッカマップに集められ、首謀者37名が処刑されました。この時、戦いを収めるのに尽力した12名のアイヌは、松前藩にその功績を称えられ「夷酋列像」と呼ばれる肖像画に描かれます。また事件の後、飛騨屋の後継者により、「寛政之蜂起和人殉難墓碑」が建立されます。
このクナシリ・メナシの戦いは、15世紀のコシャマインの戦い、17世紀のシャクシャインの戦いと比べると小規模な事件です。しかしこの戦いをきっかけに、幕府は千島列島を南下するロシアへの警戒を強め、それまで日本の外の地域とみてきた蝦夷地の内国化に力を入れ始めます。こうしてチャシを中心としたアイヌの自立した社会は解体されていくこととなりました。