鮭の聖地エコミュージアム構想12のエピソード

Episode01 国後島渡海拠点の一つ野付半島

眼前に国後島を望む根室海峡の沿岸中央部に特異な形の半島が突き出ています。全長28kmに及ぶ日本最大の砂嘴「野付半島」です。立ち枯れた樹林の光景は最果ての地を連想させます。しかし野付は、古代北方文化の時代から江戸時代まで国後島への渡海拠点となり、千島列島を通じて世界に開かれた日本の東門の役目を果たしてきたのです。野付を介した交流は「メナシ」と呼ばれる文化・経済的に一体の地域をここに築きました。

野付半島」の目前に望む国後島。その距離はわずか16kmほどで、野付半島は古来より、国後への渡海拠点として機能してきました。古代から江戸時代に至る数々の史料から、野付半島を経由して人とモノが行き交い、海峡を挟んだ両岸で育まれた一体の文化の存在を知ることができます。さらに国後島の先に連なる千島列島を通じて大陸ともつながり、異文化接触の入口にもなっていました。そこには人と文化がつながる「道」の存在が浮かび上がってきます。

01-2-タブ山チャシ跡(提供_標津町教育委員会)

タブ山チャシ跡(提供:標津町教育委員会)

野付半島の付け根にある小高い丘の上に「タブ山チャシ跡」が残されています。チャシは中世~近世にかけてのアイヌの遺跡で、その本質は神々と交信する場としての役割にあったと考えられています。しかし時代と共に、談判の場や資源監視場、戦いのための砦など、様々な役割を担っていくようになりました。海峡を航行する舟の監視場としての役割もその一つです。根室海峡北部を一望できるタブ山チャシは、国後島へと往来する人々の渡海拠点として重要な場所だったと考えられます。

01-3-野付通行屋跡遺跡

野付通行屋跡遺跡(提供:別海町郷土資料館)

野付半島の先端部には、1799(寛政11)年、国後島への中継地として幕府によって設置された「野付通行屋跡遺跡」が残ります。島へ渡る人々のための宿泊施設や蔵などもあったといわれています。また江戸から明治にかけて、野付通行屋周辺に立ち並んでいた鰊番屋群は、後に「キラク」という歓楽街があったとする伝説として語り継がれることとなります。
野付半島の中ほどに「会津藩士の墓」があります。根室海峡および千島列島でロシアとの接触や衝突が増す中、1855(安政2)年、日露通好条約が締結され、択捉島とウルップ島間に国境が定められると、幕府は東北諸藩に国境の北方警備と領地の開拓を命じました。この墓石の存在は、根室海峡沿岸が日本とロシアが接触する最前線の場であることを今に伝えています。

01-4-会津藩士の墓(提供_標津町教育委員会)

会津藩士の墓(提供:標津町教育委員会)

01-2-タブ山チャシ跡(提供_標津町教育委員会)

タブ山チャシ跡(提供:標津町教育委員会)

01-3-野付通行屋跡遺跡

野付通行屋跡遺跡(提供:別海町郷土資料館)

01-4-会津藩士の墓(提供_標津町教育委員会)

会津藩士の墓(提供:標津町教育委員会)