「標津番屋屏風」が描かれたのは1864(元治元)年です。それをさかのぼる18世紀、
このあたりは松前藩の領地で、本州向けの蝦夷地産物として、それまでのラッコ毛皮や鷲羽などに加え、
鮭・鱒などの肥料用のしめ粕や、塩鮭・塩鱒が重要な品となっていました。
これらはアイヌの人々を酷使して生産され、1789(寛政元)年のアイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」の
きっかけともなりました。
同じころ、ロシアがラッコ毛皮を求めて千島列島を南下し、18世紀後半にはロシア船がたて続けに
蝦夷地へ来航しました。根室を訪れた使節ラクスマンは、日本との通商を申し出、19世紀に入ると
使節レザノフが長崎を訪れ通商を求めましたが、幕府が拒絶したことで択捉島の会所(交易の拠点)が
ロシア海軍士官から襲撃されます。さらに、ロシア海軍のゴローウニンらが極東沿岸調査の途中、
国後島に上陸したため拿捕したところ、報復として根室場所請負人の高田屋嘉兵衛が野付半島沖で
ロシアに拉致される事件も起こりました。
根室海峡や千島列島でロシアとの接触や衝突が増すなか、1855(安政2)年、日露通好条約が締結されます。
択捉島とウルップ島間に国境が定められると、蝦夷地の大部分を幕府が直轄。その後、東北諸藩に蝦夷地を
分割して領地として与え、国境の北方警備と領地の開拓を命じました。今の別海町本別海から知床半島までと、
網走を除く道北の紋別にいたる範囲は会津藩の領地となり、標津に本陣を置きました。
「標津番屋屏風」は標津の二代目代官となる南摩綱紀(なんま・つなのり)が指示し、
会津藩の絵師・星暁邨(ほし・ぎょうそん)の手によって作られました。南摩は、
この地の鮭・鱒の資源の豊かに着目し、これを産業として確立することを構想したのです。
また、アイヌの人々の労働力を搾取するのではなく、一緒に領地を開拓しようと試みました。
水産資源だけでなく、造船に適したミズナラ等の森林資源の豊かさもこの構想の一因になっています。
南摩はまちの未来を一隻の屏風に描き、当時京都守護職にあった藩主の松平容保公に伝えたと言われています。
屏風の中では、小舟が連なる大きな川と、そのほとりで忙しそうに働くアイヌの人々。
小舟に満載しているのは鮭で、舟から降ろされた鮭は背負い籠で小屋へ運ばれています。
小屋では塩をまぶした鮭を山のように積み上げて水分を抜き、熟成させた鮭の「山漬け」が作られています。
中央上部右手の神社は標津神社で、その場所は今も変わっていません。中央の櫓の左手には南摩綱紀自身も描かれています。
実物は新潟県の西厳寺(さいごんじ)に保管されていますが、ポー川史跡自然公園のビジターセンターで
実物と同じ大きさの詳細なレプリカを見ることができます。
(写真をクリックすると、より詳細な屏風をご覧いただけます)
北海道標津郡標津町字伊茶仁2784番地
MAPTEL:0153-82-3674
開館時間:9:00~17:00(入園は16:30まで)
開館期間:4月29日~11月23日
入館料:ビジターセンターは無料(ポー川史跡自然公園は環境保全協力金として一般330円、大学生・高校生110円、中学生以下無料